コロンブスの発見以前には、キスケージャ(「母なる大地」の意)またはハイチ(「山地」の意)と呼ばれたこの島に、現在のベネズエラ南部のオリノコ川とブラジルのアマゾン川に至る地域から、シボネイ族、アラワク族、カリブ族などが渡り住み、発見当時には5つの酋長領地に分かれていたとされている。
(1) キスケージャ島は、コロンブスによりその第1回目の航海(1492年)で発見され、スペイン(エスパーニャ)に雰囲気が似ているとして、イスパニョーラ島と名付けられた。コロンブスはこの航海で、島の北岸を西端から東のサマナ湾までを探検した。
(2) 第2回目の航海でコロンブスは、現在のモンテ・クリスティの東部に新世界で最初の町を築き、ラ・イサベラと名付けた(1493年11月)。そこから、金鉱を探すための2つの探検隊をシバオ平原に向けて派遣した。1496年コロンブスはスペインに帰国するに際し、弟バルトロメを臨時総督に任命した。同年8月、バルトロメは島の南岸オサマ川河口の東側に新しい町ヌエバ・イサベラを建設したが、この町は1502年ハリケーンにより破壊された。このため新総督ニコラス・デ・オバンドにより新市街が川の西岸に建設され、今日のサントドミンゴの中心街(旧市街)が作られた。
(3) 植民地時代の経済活動はまず金鉱採掘から始まり、順次砂糖の生産、牧畜が盛んとなり、サントドミンゴは貿易の中心地として栄えた。しかし、16世紀中頃には貿易の中心地はキューバのハバナに移り、サントドミンゴは衰退の途をたどった。1586年には、英国海賊ドレイクによるサントドミンゴへの上陸と略奪が行われた。1630年にはフランス、英国、オランダなどの海賊が、イスパニョーラ島北西のトルトゥガ島を占拠する等した。
(4) フランスはイスパニョーラ島西部への侵入を行い、スペインから1697年に侵入地域の割譲を受け、1795年のバーゼル条約により全島を譲渡された。ハイチは1804年フランスから独立したが、イスパニョーラ島東部は、ファン・サンチェス・ラミレースが1809年にフランス軍を打ち破るまでフランスの支配下にあった。
(5) 1821年11月、ホセ・ヌーニェス・デ・カセレスはイスパニョーラ島東部の独立を宣言したが、1822年にハイチの侵入を受け、その後22年間に渡りハイチの支配下におかれた。
(1) 1844年2月27日、ドミニカ共和国独立の3傑ファン・パブロ・ドゥアルテ、ラモン・メジャ、フランシスコ・デ・ロサリオ・サンチェスは、ハイチの支配に対し独立を宣言し、ペドロ・サンターナ将軍が初代大統領に就任した。しかし、サンターナは内紛とハイチからの脅威に直面し、1861年3月に権力の座を降り、スペインによる再併合を要請し、併合後は軍司令官兼総督としてとどまった。
(2) スペイン統治下でかえって事態が悪化し、経済活動の停滞、庶民への圧迫、人種偏見などが激しくなった。このため1863年8月16日、カポティージョにおいてホセ・マリア・カブラルおよびグレゴリオ・ルペロンらが第2回目の独立を宣言して蜂起した。以降、1865年のスペイン人の退去まで2年間に渡る共和国復興の戦いが続けられた。
(1) 1905年、米国はドミニカ共和国の対外債務支払いを保証するため関税徴収権を確保し、軍事干渉も可能にする協定を結ばせてドミニカ共和国を事実上の保護国とした。1914年に第1次大戦が始まると、米国はドイツの影響を懸念してドミニカ共和国に軍事侵攻し、1924年にオラシオ・バスケス大統領が選出されるまで軍政下においた。
(2) 1930年、軍部で頭角を表したレオニダス・トルヒージョ将軍は、クーデターで実権を握り、その後大統領に就任した。トルヒージョ一族は国家権力、砂糖産業等を私物化し、反体制派を弾圧するなど専制体制を敷いた。また、首都サントドミンゴはトルヒージョ市に改称された。
トルヒージョは国境地域のハイチ人不法移民の増大に危機を抱き、1937年、軍を動員して1万人を超えるといわれるハイチ人を殺害した。更に、トルヒージョ政権は「国境地域のドミニカ化」政策を推し進め各地に農民を移住させるとともに、欧州からの移民を推奨した。第2次大戦後の日本移民もこの政策の一環として実施された。 米国はドミニカの反共産化を期待してトルヒージョ政権を黙認したが、1959年のキューバ革命以後カリブに「第2のキューバ」が出現することを懸念し、CIAを通じて国内のトルヒージョ暗殺工作を支援した。1961年、CIAにライフル銃を提供された暗殺グループはトルヒージョを暗殺した。
(3) 1962年、38年ぶりの民主的選挙で大統領に選出されたドミニカ革命党(PRD)のファン・ボッシュは、男女平等賃金、大土地所有の禁止、国内農産物価格の国家保証などの政策を推進した。ボッシュ大統領を共産主義者とみる反政府派は米国の支援を受けクーデターによりボッシュ政権を崩壊させた。
(4) ボッシュ政権後に樹立した臨時政府への国民の抵抗は激しく、1965年にフランシスコ・カアマーニョ陸軍大佐率いる軍部左派の決起で臨時政府が倒れると、これを支持する国民が呼応して右派左派が衝突する内戦に発展するも、米国が軍事介入して左派を一挙に制圧した。
(5) 1966年6月の総選挙で選出されたホアキン・バラゲール大統領は、野党勢力も取り込みアメリカの支持を背景に政権基盤を確立し、再選を繰り返し政治の安定を背景に経済を拡大に導いた。経済は観光産業、ニッケル等の輸出産業の拡大、海外送金を通じて発展を続けた。バラゲール大統領は、トルヒージョ政権崩壊前後の2年間、1966年~1978年の3選、1986年~1996年の3選で計7回、24年間大統領を務めた。なお、バラゲール大統領は1961年に首都の名称をサントドミンゴに再度改称した。
(6) バラゲール大統領は、ペニャ・ゴメスPRD候補に1994年の大統領選挙における選挙不正工作を国際社会に告発され、この批判を前に不正を事実上認める形で任期を4年から2年に短縮した。1996年に大統領選挙が行われたところ、ファン・ボッシュが結党したドミニカ解放党(PLD)から出馬したレオネル・フェルナンデスが勝利し、初めてPLD政権が誕生した(第1次フェルナンデス政権)。フェルナンデス大統領は、野党が過半数を占める上下両院の反対や野党間の対立に直面しつつも、国家機構の近代化を目指し、民主主義定着の前進に貢献した。
(7) 2000年の大統領選挙では、PRDのイポリト・メヒーアが当選した。PRDにとっては14年ぶりの政権復帰で、同党のおもな支持層である下層、貧困層から貧困対策強化への強い期待が寄せられた。しかし政権後半、同政権の経済政策の失敗により、大手銀行が破綻するなどの経済危機が発生し、メヒーア大統領は国民からの信頼を失った。
(8) 2004年に行われた大統領選挙では、PLDのフェルナンデス候補がメヒーア前大統領を破って大統領に返り咲いた。フェルナンデス大統領は、続く2008年の大統領選挙で再選を果たし、前回の大統領任期と合わせ計12年間大統領を務めた。同大統領は、経済財政改革、電力問題改善、貧困対策等を最優先に取組み、特に、前政権時の経済危機を克服し、マクロ経済の安定化に成功、高い経済成長率を達成した。他方、貧困格差の是正、治安、汚職等は引き続き課題として残された。
(9) 2012年の大統領選挙では、PLDのメディーナ候補がメヒーア元大統領との接戦の上、51%の票を獲得し当選した。メディーナ大統領は、教育への注力や低価格住宅の建設、毎週末地方を訪問して住民の声を直接聴く等の社会政策を通じ、高い支持率を得た。
(10)2015年6月に憲法が改正され、大統領の連続再選が可能となった。2016年5月の大統領選挙では、PLDのメディーナ大統領が同国史上最多の得票率61.7%を獲得し、再選を果たした。メディーナ政権は、教育予算の対GDP比4%の確保、観光開発、地方経済支援と低所得者向け施策、マクロ経済の安定等の成果をあげたが、治安、汚職等の社会問題や格差の拡大により国民の不満が高まった。また、2020年大統領選挙に向けての、メディーナ大統領の更なる連続再選の問題を巡り、与党の分裂を招いた。
(11)2020年に行われた大統領選挙では、現代革命党(PRM)のアビナデル候補が52.52%の票を獲得、第二位のカスティージョPLD候補(37.46%)に勝利した。国会議員選挙では、野党PRMが上下両院ともに第1党(上院32議席中18議席、下院190議席中90議席)を獲得した。アビナデル大統領は、新型コロナウイルスの感染拡大防止、医療体制の強化、官民連携を通じた経済回復に取り組みつつ、汚職・治安問題の改善、財政健全化、検索庁の独立等、「変革」を旗印に国家改革を推進している。